公開日
要点
- 耐量子計算機暗号(PQC)は、量子コンピュータが実用化されても、現在のところ効率的な攻撃方法が知られていない暗号です。RSAや楕円曲線暗号などの公開鍵暗号は、暗号解読が可能な量子コンピュータ(CRQC)が登場すると安全でなくなるとされ、置き換えが必要です。
- 暗号化されたデータを今のうちに集めて後から解読する「HNDL(Harvest Now Decrypt Later)」攻撃があるため、長期間の保護が必要なデータは、CRQCが登場する前から対策を考える必要があります。
- NISTは2024年8月13日にFIPS 203(ML-KEM)、FIPS 204(ML-DSA)、FIPS 205(SLH-DSA)を公表しました。量子脆弱な公開鍵暗号を2030年より後に非推奨(112ビット強度のもの)、2035年より後に使用不可とするNIST IR 8547は、2026年10月13日時点で初期公開ドラフト(2024年11月)のままです。
- 金融庁の検討会報告書(2024年11月26日)は、優先度の高いシステムについて2030年代半ばを目安にPQCのアルゴリズムを利用可能な状態にすることが望ましいとし、経営層の主導、クリプト・インベントリの早期構築、クリプト・アジリティの向上、ベンダーとの協働を求めています。FISC安全対策基準 第14版(2026年3月)は、この報告書の留意点や対応時期を反映しています。
- 金融庁は2025年6月の新形態銀行との意見交換会で、準備への着手を先送りすることは不適切だとして、ITベンダーと相談しながらのロードマップ作成と、暗号のインベントリ整備・リスク評価に直ちに取り組むよう求め、検査・モニタリング等も活用して対応状況をフォローするとしています。
耐量子計算機暗号(PQC)とは
耐量子計算機暗号(Post-Quantum Cryptography、PQC)とは、量子コンピュータが実用化されても、現在のところ効率的な攻撃方法が知られていない暗号のことです(金融庁の検討会報告書の用語集による定義)。量子力学の原理に基づいて鍵を共有する量子鍵配送(QKD)とは別の技術で、政府の中間とりまとめ(2025年11月)も両者を分けて扱っています。
量子コンピュータでShorのアルゴリズム(1994年発表)を実行すると既存の公開鍵暗号が解読されうることは以前から知られていましたが、それを実行できる量子コンピュータがなかったため、現実的な脅威とは考えられていませんでした。報告書は、量子コンピュータの技術は近年めざましく進展しているものの、現時点では公開鍵暗号の解読に現実的な脅威をもたらす水準にはないとしています。政府の中間とりまとめによれば、通信で使われている公開鍵暗号を現実的な時間で解くには、誤り耐性型の量子コンピュータ(FTQC)の実現を前提に、100万物理量子ビット以上が必要とされています。
| アルゴリズム | 種類 | 用途 | 大規模な量子コンピュータの影響 |
|---|---|---|---|
| AES | 共通鍵暗号 | 暗号化 | より大きな鍵長が必要 |
| SHA-2、SHA-3 | ハッシュ関数 | ハッシュ値の計算 | より大きな出力が必要 |
| RSA | 公開鍵暗号 | 署名、鍵確立 | 安全でなくなる |
| ECDSA、ECDH(楕円曲線暗号) | 公開鍵暗号 | 署名、鍵交換 | 安全でなくなる |
| DSA(有限体暗号) | 公開鍵暗号 | 署名、鍵交換 | 安全でなくなる |
公開鍵暗号は、鍵を長くしても十分な安全性を確保できないとされている点が、共通鍵暗号やハッシュ関数との違いです。金融機関では、利用者の認証、ファームウェアの署名、電子証明書、暗号鍵の共有などに公開鍵暗号が使われています。報告書は保護すべき代表的なデータとして、インターネットバンキングの認証情報・取引情報、キャッシュカードのICチップ内の認証情報、行内の事務データ、電子メール・SMSを挙げ、全銀システム、日銀ネット、統合ATM、でんさいネット、CAFIS、SWIFTなどの共同利用システムも例示しています。共同利用システムは利用機関が多いため、セキュリティ対策の変更計画では合意形成に時間がかかると見込まれています。
なぜ今なのか:HNDL攻撃と長い移行期間
暗号解読が可能な量子コンピュータ(CRQC)がいつ登場するかには諸説あります。報告書は2030年から2050年ごろとする見方から永遠に完成しないとする見方まであると紹介しています。政府の中間とりまとめも、2039年より前にRSA-2048を解読できる量子コンピュータが実現する可能性を5%未満と推定する研究がある一方、2024年時点で15年以内に実現する可能性を39%から62%程度とする分析もあるとして、時期の正確な予測は困難だとしています。それでも準備が急がれる理由は、HNDL攻撃と、移行そのものにかかる時間の長さです。
モスカの不等式:X+Y>Zなら対策が必要
HNDL攻撃とは、暗号化されたデータを今のうちに収集・保管しておき、CRQCが登場した後に解読する攻撃です。報告書はMichele Moscaの指摘を引き、暗号システムの移行にかかる期間をX年、データを暗号で保護し続ける必要がある期間をY年、CRQCが登場するまでの期間をZ年としたとき、X+Y>Zとなる場合はHNDL攻撃への備えが必要になると説明しています。例えば移行に10年かかり、データを20年保護する必要があるシステムでは、移行完了の直前に作られたデータまで含めて、旧来の暗号による保護を30年間維持しなければなりません。その30年のうちにCRQCが登場すれば、データはHNDL攻撃の脅威にさらされます。
移行が長引く理由として、報告書は、公開鍵暗号がTLS通信、電子文書への署名、ICカード、アプリケーション独自の暗号化など多くの箇所で使われていて網羅的な把握に時間がかかること、開発委託先や製品ベンダー、接続先システムの管理部門など関係者が多いこと、PQCを組み込んだプロトコルや製品の普及がまだ途上であることを挙げています。政府の中間とりまとめも、RSAなどは暗号方式の提案から社会的な普及まで20年ほどかかったとして、長期の移行スケジュールを策定して準備する必要があるとしています。
改ざん防止(完全性)への影響は、CRQCが実現した後にしか生じません。そのため報告書は、HNDL攻撃で侵害される機密性よりも優先度を下げて考えられるとしています。ただし、CRQCの実現前にデジタル署名されたデータは実現後に完全性が担保されなくなるため、データアーカイブやタイムスタンプなど、完全性を検証する仕組みの検討が望ましいとしています。
NISTの標準:FIPS 203・204・205
アメリカの国立標準技術研究所(NIST)は、2016年2月にPQCの標準化計画を発表し、数十件の候補を評価したうえで、2024年8月13日に最初の3つのPQC標準を公表しました。NISTのPQC標準化プロジェクトの責任者は、システム管理者に対し、すぐに自システムへの組み込みを始めるよう促し、将来の標準を待つ必要はないと述べています。
| 標準 | 方式 | 用途 | 元のアルゴリズムと位置づけ |
|---|---|---|---|
| FIPS 203 | ML-KEM(モジュール格子に基づく鍵カプセル化) | 鍵の共有 | CRYSTALS-Kyber。一般的な暗号化の主たる標準 |
| FIPS 204 | ML-DSA(モジュール格子に基づくデジタル署名) | デジタル署名 | CRYSTALS-Dilithium。デジタル署名の主たる標準 |
| FIPS 205 | SLH-DSA(ステートレスなハッシュベースのデジタル署名) | デジタル署名 | SPHINCS+。ML-DSAに脆弱性が見つかった場合の予備で、異なる数学的手法に基づく |
このほか、Falconを元にした署名方式(FN-DSA)はFIPS 206として標準化される予定です。2026年8月5日更新のNISTのPQCプロジェクトページは、FalconとHQCを「標準化を継続中」の方式として紹介しています。HQCは、ML-KEMが破られた場合の予備となる鍵カプセル化方式として2025年3月11日に選定され、発表時点の予定では、約1年後にドラフト標準を公表し、2027年に最終化するとされていました。日本では、CRYPTRECがFIPS 203・204・205を対象に安全性評価と実装性能評価を順次進めており、その結果をCRYPTREC暗号リストに反映できるよう検討するとされています(政府の中間とりまとめ)。
NIST IR 8547:2030年・2035年の移行スケジュール案
NISTは2024年11月12日、量子脆弱なアルゴリズムからPQCへの移行方針を示す「NIST IR 8547 Transition to Post-Quantum Cryptography Standards」を初期公開ドラフト(ipd)として公表しました。意見募集は2025年1月10日に締め切られ、寄せられた意見は2025年1月21日に公開されています。2026年10月13日時点で、NISTのCSRCに掲載されているのはこの初期公開ドラフトだけで、最終版は公表されていません。
| 用途 | アルゴリズム | セキュリティ強度112ビット | 128ビット以上 |
|---|---|---|---|
| デジタル署名 | ECDSA、RSA | 2030年より後は非推奨、2035年より後は使用不可 | 2035年より後は使用不可 |
| デジタル署名 | EdDSA | 記載なし | 2035年より後は使用不可 |
| 鍵確立 | 有限体DH・MQV、楕円曲線DH・MQV、RSA | 2030年より後は非推奨、2035年より後は使用不可 | 2035年より後は使用不可 |
「非推奨(deprecated)」はリスクがあることを前提に利用でき、利用を続けるかどうかをデータの所有者が判断する状態、「使用不可(disallowed)」はその用途での利用が認められない状態です。ドラフトは、アメリカの国家安全保障覚書(NSM-10)が連邦政府のシステムのPQC移行を完了する主な目標年を2035年としていることを引き、長期の機密性が必要なシステムなどはより早い移行が必要になる場合があるとしています。また、ネットワーク通信へのHNDL攻撃のリスクを抑えるため、用途別のガイダンスで、一般的な使用不可の時期より前に量子耐性のある鍵確立への移行を求める場合があるとしています。
IR 8547はアメリカ連邦政府の標準の移行計画で、日本の金融機関に直接適用されるものではありません。ただし金融庁の報告書は、アメリカ政府が2035年を目途に移行を進めていることから、預金取扱金融機関を対象とする各種法令や海外規制に移行対応が盛り込まれる可能性があるとしています。
金融庁の検討会報告書(2024年11月)の要点
金融庁は2024年7月から10月にかけて「預金取扱金融機関の耐量子計算機暗号への対応に関する検討会」を全3回開催し、2024年11月26日に報告書を公表しました。メンバーには3メガバンクや預金取扱金融機関に係る業界団体の代表者、暗号に関する有識者などが参加し、金融ISAC、CRYPTREC事務局、FISC、日本銀行金融機構局、内閣サイバーセキュリティセンター(NISC)がオブザーバーを務めました。報告書は、検討会が行政運営上の意見交換の場であり、法令に基づく審議会等ではないと注記しています。
対応時期の目安:2030年代半ば
報告書のエグゼクティブサマリーは、各組織内の優先度の高いシステムについて、技術進展や海外規制動向を注視しつつ、2030年代半ばを目安にPQCのアルゴリズムを利用可能な状態にすることが望ましいとしています。本文の推奨事項では「2030年代前半から半ばまで」を目安とし、この期限は固定ではなく、法令・規制やCRQCの進展を見ながら柔軟に見直すものだとしています。さらに、期限までに移行が終わらない場合を不測の事態と捉え、事前共有鍵による通信の秘匿化(適用できる環境は極めて限定的と注記)、暗号化通信の利用を必要最低限にするポリシー、特に重要な文書の物理的な原本の厳重な保管といった代替策を検討しておくことが望ましいとしています。
優先して対応するシステムの考え方
報告書は、重要度が高く、量子脆弱性をもち、悪用される可能性が比較的高いシステムから対応するのが基本だとし、3つの条件すべてに当てはまるものを優先する考え方を例示しています。また、長期の保護が想定される用途として、容易に入れ替えられないハードウェアのファームウェアに対するコード署名と、TLS通信の鍵共有を、早急な着手が望ましい例に挙げています。TLSでは保存期間の長い情報と短い情報が混在し、区別せずに同じように処理されることも想定されるため、鍵共有を優先して対応することが望ましいとしています。
| 判断軸 | 該当する例 |
|---|---|
| 重要度が高い | FISC安全対策基準の「特定システム」のように社会的な影響が大きい。保護期間が長期に設定されたデータや、漏えい時の影響が極めて大きいデータを扱う。海外規制の影響を受ける |
| 量子脆弱性をもつ | 公開鍵暗号や鍵長の短い共通鍵暗号を使っている。ソフトウェア・ファームウェア署名など、量子脆弱な暗号による保護が比較的長期にわたる |
| 悪用される可能性が比較的高い | 保護すべき情報をインターネット経由でやり取りしている。リスク管理の状況を直接把握していない外部のシステムと接続し、そこで保護すべき情報を扱う。暗号化以外の対策がない(多重防御が講じられていない) |
経営層の役割と体制
報告書は、PQC対応を自社のリスクマネジメントにおける重要課題と位置づけ、経営層が全社施策としてリーダーシップを発揮し、各システムの暗号の利用状況やデータの重要性・保存期間を把握したうえで移行方針を決定することが望ましいとしています。国内の金融機関は外部委託先への依存度が高い一方、ベンダーの準備状況にはばらつきがあるため、ベンダーの対応に完全に依拠せず、自社でオーナーシップをもって取り組むことを求めています。社内では、ビジネス部門、サイバー部門、IT部門、リスク管理部門、内部監査部門、広報部門などの役割と責任を明確にし、暗号の専門人材が不足する場合は外部パートナーを含めてリソースを確保するよう促しています。
報告書の対象は預金取扱金融機関です。ただし金融庁は、2025年2月の日本投資顧問業協会との意見交換会で、本検討会の議論は預金取扱金融機関以外の業態にも参考になるはずだと述べています。FISC安全対策基準も金融機関等全般が参照する基準なので、証券会社、保険会社、資産運用会社なども同じ考え方で準備を進めるのが現実的です。
2025年の金融庁の要請:準備の先送りは不適切
報告書の公表後、金融庁は金融機関との意見交換会でもPQC移行への着手を求めています。2025年6月6日の新形態銀行との意見交換会の連絡事項では、量子コンピュータが悪用されるとインターネットバンキング等に使われている暗号が解読され、顧客情報等の機密性が損なわれるリスクがあると指摘しました。そのうえで、大規模なシステム更改は通常数年に一度程度でPQCへの移行のタイミングは限られているとして、まだ先の問題と捉えて準備への着手を先送りすることは不適切であり、直ちに取り組むよう求めています。
- ロードマップ:検討の開始から移行までの一連の作業について、直ちにITベンダーとも相談しながらロードマップを作成する。金融ISACでロードマップのひな型が検討されているが、完成を待たずに自社でできることに着手する。
- インベントリとリスク評価:情報資産を網羅的に把握し、それぞれにどの暗号が使われているかをリスト化したインベントリを整備する。量子コンピュータの実現で危殆化するリスクや、HNDL攻撃に備えて今から対策すべきリスクを評価し、重要性・緊急性も評価する。
- フォローアップ:金融庁は、金融ISACや業界団体と連携し、検査・モニタリング等も活用して、各金融機関と金融業界全体のPQC移行に向けた対応状況を推進・フォローする。
FISC安全対策基準 第14版との関係
2026年3月に発行されたFISC安全対策基準(金融機関等コンピュータシステムの安全対策基準・解説書)第14版は、改訂分野の1つに耐量子計算機暗号(PQC)を挙げ、金融庁の検討会報告書に示される「PQC移行に関する留意点や対応時期」などを反映したと説明しています。どの基準項目がどう変わったかは公開ページからは分からないため、具体的な記載は購入版で確認する必要があります。報告書自体も優先対応の判断軸の例としてFISCの「特定システム」を挙げているので、FISC安全対策基準の対照表でPQCの項目を管理し、クリプト・インベントリや移行計画を証跡として紐づけておくと、検査や内部監査への説明がしやすくなります。
政府とG7の目安:2035年が共通の到達点
日本政府は2025年6月30日に「政府機関等における耐量子計算機暗号(PQC)利用に関する関係府省庁連絡会議」の初会合を開き、2025年11月に中間とりまとめを公表しました。中間とりまとめは、アメリカ、EU、イギリス、カナダなど多くの国が2035年までを期限として移行を進めていることを踏まえ、政府機関等のPQCへの移行を原則として2035年までに行うことを目指し、2026年度に工程表(ロードマップ)を策定するとしています。対象は政府機関等ですが、PQCへの移行は重要インフラ事業者や民間事業者も考慮しなければならない課題だとして、円滑な移行を後押しするとしています。金融は、政府の行動計画が定める重要インフラの1分野です。
G7財務大臣・中央銀行総裁に助言するG7サイバー・エキスパート・グループ(CEG)は、2026年1月12日に「金融セクターにおける耐量子計算機暗号への移行に向けた協調的なロードマップの推進に関するステートメント」を公表し、金融庁が仮訳を掲載しています。ステートメントは指針や規制上の期待を示すものではないとしたうえで、多くのガイダンスが移行全体の目標として2035年を挙げていることを紹介し、最重要のシステムは例えば2030年から2032年を目標に優先して対応することで、リスクが早く顕在化した場合の影響を減らせるとしています。移行の取組は「認識と準備」「検出とインベントリ」「リスク評価と計画」「移行実施」「移行検証」「検証とモニタリング」の6つのフェーズに整理されていますが、多くの取組は並行して繰り返し行われるとしています。
| 文書 | 対象 | 目安 |
|---|---|---|
| 金融庁 検討会報告書(2024年11月) | 預金取扱金融機関 | 優先度の高いシステムで、2030年代半ば(本文では2030年代前半から半ば)までにPQCを利用可能な状態に |
| 政府 中間とりまとめ(2025年11月) | 政府機関等 | 原則として2035年までに移行。工程表は2026年度に策定 |
| NIST IR 8547 初期公開ドラフト(2024年11月) | アメリカ連邦政府の標準 | 112ビット強度の量子脆弱な方式は2030年より後に非推奨、量子脆弱な公開鍵方式は2035年より後に使用不可 |
| G7 CEG ステートメント(2026年1月) | G7の金融セクター(規範ではない) | 全体で2035年。最重要のシステムは例えば2030年から2032年 |
| 英国NCSC(2025年3月) | 英国の大規模組織、重要インフラ事業者など | 2028年までに棚卸しと初期計画、2031年までに最優先の移行、2035年までにすべての移行を完了 |
クリプト・アジリティとハイブリッド方式
クリプト・アジリティとは、システムで使っている暗号方式から別の暗号方式へ、スムーズに、影響を最小限にしながら移行できるシステムの特性です。PQCは比較的新しい技術で、報告書は、NISTの標準化の第4ラウンドに進んだ候補(SIKE)に解読手法が見つかった例を挙げています。そのため、量子脆弱な暗号からPQCへの1回の移行だけでなく、複数回の暗号移行を想定しておくことが望ましいとしています。報告書が挙げる具体的な方法は次のとおりです。
- 暗号の呼び出しを抽象化する:アプリケーションのメインルーチンでは抽象化した暗号機能を呼び出すだけにして、具体的なアルゴリズムやパラメータの処理を分離します。
- 標準に沿った製品を選ぶ:標準化されたPQCアルゴリズムとパラメータを選択できる製品や、標準化されたプロトコル仕様に沿って実装された製品を導入します。
- 有効期限を短めにする:電子証明書やICカードなど、第三者に配布するものは有効期限を比較的短く設定します。
- プロトコルを更新する:PQCが適用されない可能性があるプロトコルやバージョンはアップグレードします。報告書はTLS 1.2からTLS 1.3への移行を例に挙げています。
- 証明書と鍵を一元管理する:電子証明書のライフサイクルを一元管理し、自動更新できる管理基盤の活用を進めます。
ハイブリッド方式は、1つの暗号機能に既存の暗号とPQCを組み合わせて使い、どちらか一方が危殆化しても安全性を保つことを目指す方法で、主に完全移行までの過渡期に使われます。報告書は、独自に実装すると全体の安全性が最も弱い方式に依存してしまうおそれがあるとして、IKEv2のハイブリッド方式(RFC 9370)など、標準化済み・検討中の方式に沿って利用することが望ましいとしています。性能面では、PQCは鍵のサイズ、署名のサイズ、計算量の少なくとも1つで既存の公開鍵暗号より多くのリソースを使うため、TLSのサーバ証明書の格納や、1台のWebサーバが同時に処理できるコネクション数への影響が指摘されています。過渡期にはPQC対応・未対応の接続先が混在する前提で、両方の接続を実現する機能も検討する必要があります。
金融機関はどこから始めるか:6つのステップ
- 経営層の関与と体制を決める:PQC移行をリスクマネジメントの課題として経営陣に報告し、移行方針、責任者、関係部門(IT、サイバー、リスク管理、内部監査、事業部門など)の役割を決めます。意思決定の内容と理由は、議事録や決裁記録に残します。
- クリプト・インベントリを作る:自社開発のシステムと外部から提供されたシステム・製品の両方を対象に、優先度の高いシステムから、暗号の利用箇所、用途、アルゴリズム、鍵長、鍵の管理方法などを一覧にします。IT資産の台帳がすでにある場合は、使用中と利用可能な暗号アルゴリズムの項目を追加する方法もあります。
- 優先順位を付ける:データを保護すべき期間、業務の重要性、インターネットや外部システムとの接点、多重防御の有無を基準に優先順位を付けます。HNDL攻撃の影響を受けやすいTLSの鍵共有や、長く使い続ける機器のファームウェア署名は早めに評価します。
- 移行計画にクリプト・アジリティを組み込む:大規模なシステム更改・改修のタイミングに合わせて、PQCへの移行と暗号の切り替えやすさを組み込み、優先度の高いものから期限を設定します。期限に間に合わない場合の代替策も計画に含めます。
- ベンダーとクラウド事業者に確認する:開発ベンダー、製品ベンダー、クラウド事業者にPQC対応のロードマップを確認し、新規契約や更新の際に対応時期を条件に含めることを検討します。
- 記録し、定期的に見直す:インベントリはシステム更改のたびに更新し、標準化、規制、CRQCの動向を踏まえて計画を見直します。リスクを受容した判断も、理由とともに記録します。
クリプト・インベントリに記録する項目の例
| 項目 | 例 |
|---|---|
| 暗号利用場面 | ユーザーとの通信、インターネットVPNによるリモートアクセス、電子文書や電子メールへの署名、サーバ証明書による認証、データベースの暗号化 |
| 暗号用途 | 通信内容の保護、顧客情報の安全な保存、文書の改ざん防止、サーバのなりすまし防止 |
| 暗号実装箇所 | 自組織開発のアプリケーションへの独自実装、外部から提供された製品(ハードウェア・ソフトウェア・アプリケーション) |
| 利用アルゴリズムと鍵 | RSA-OAEP、ECDH、RSA-PSS、ECDSAなど。鍵長と鍵の更新頻度 |
| 暗号鍵の管理方法 | 自組織所有のHSM、クラウドサービスでの管理 |
| 長期保護が必要なデータとの接点 | インターネット経由での送受信、外部委託先のシステム上での保管 |
| 担当者 | 利用システムの担当者 |
情報の集め方として、報告書はシステム担当者へのヒアリング、開発ベンダーや製品ベンダーへのヒアリング、ネットワークスキャンツールによる発見、アプリケーションコードの解析を挙げ、インベントリは一度作って終わりではなく、定期的に、またシステム更改のたびに更新することが前提だとしています。CISA、NSA、NISTのファクトシートは、製品に組み込まれた暗号は発見ツールで見つけにくいため、ベンダーに組み込み暗号の一覧を求めるべきだとしています。台帳の形式について、報告書はEcmaの国際標準として採択されたCycloneDX v1.6が定めるフォーマットの利用も有効な選択肢だとしています。
ベンダーとクラウド事業者に確認すること
- PQC移行のロードマップ:PQCアルゴリズムの試験と製品への組み込みの時期。CISA、NSA、NISTは、ベンダーが自社のPQCロードマップを公表することが望ましいとしています。
- 組み込まれた暗号の一覧:製品やサービスが内部で使っている暗号アルゴリズムと鍵長。
- 対応の方法と費用:新しい製品がPQCを組み込んだ状態で提供されるか、既存製品がいつ、どのような更新でPQCに対応するか、移行に伴う費用はどの程度か。
- クラウドでの有効化:クラウドサービスでPQCを使うために、設定の変更やアプリケーションの更新が必要か。
- ベンダー自身の体制:トップマネジメントの関与、クリプト・インベントリの整備、移行の優先順位付けの方針。報告書は、FS-ISACが示すこうした質問例を実際のヒアリングに活用できるとしています。
よくある質問
- 金融機関にPQCへの移行を義務づける法令はありますか?
- 金融庁の報告書は、PQC対応を法令・規制として制定しているものは現状では少ないとしたうえで、国内外の法令・規制の整備状況を継続的に注視するよう求めています(2024年11月時点)。一方で金融庁は、2025年の意見交換会で準備への着手を先送りせず直ちに取り組むよう求め、金融ISACや業界団体と連携し、検査・モニタリング等も活用して対応状況をフォローするとしています。FISC安全対策基準 第14版も報告書の対応時期などを反映しています。法的な義務の有無にかかわらず、金融庁のモニタリングで対応状況を確認されうるテーマだと考えておくのが現実的です。
- いつまでに移行を終えればよいですか?
- 金融庁の報告書は、優先度の高いシステムについて2030年代半ば(本文では2030年代前半から半ば)を目安にPQCのアルゴリズムを利用可能な状態にすることが望ましいとしています。政府は政府機関等の移行を原則として2035年までに行うことを目指し、G7サイバー・エキスパート・グループは全体の目標を2035年、最重要のシステムは例えば2030年から2032年としています。いずれも固定の期限ではなく、技術や規制の動向に応じて見直されるものです。データの保護期間が長いシステムほど、早い移行が必要になります。
- 証券会社や保険会社も対象になりますか?
- 金融庁の報告書の対象は預金取扱金融機関ですが、金融庁は2025年2月の日本投資顧問業協会との意見交換会で、検討会の議論は預金取扱金融機関以外の業態にも参考になるはずだと述べています。FISC安全対策基準 第14版は金融機関等全般が参照する基準で、PQCの改訂も含まれています。業態にかかわらず、長期間の保護が必要な顧客データや取引データを扱うなら、同じ手順で準備を進めるのが現実的です。
- 共通鍵暗号(AES)やハッシュ関数も置き換える必要がありますか?
- 移行の主な対象は公開鍵暗号です。報告書が引用するNISTの整理では、AESなどの共通鍵暗号はより大きな鍵長、SHA-2・SHA-3などのハッシュ関数はより大きな出力で備えられるとされています。政府の中間とりまとめは、現在主に使われている128ビット相当の共通鍵暗号とハッシュ関数について、よりセキュリティ強度の高い鍵長への変更を検討する必要があるとしています。報告書の優先対応の判断軸にも、鍵長の短い共通鍵暗号の利用が含まれています。
- NIST IR 8547の2030年・2035年のスケジュールは確定していますか?
- 確定していません。NIST IR 8547は2024年11月12日に初期公開ドラフトとして公表され、意見募集は2025年1月10日に締め切られましたが、2026年10月13日時点でNISTのCSRCに最終版は掲載されていません。ドラフトでは、112ビット強度の量子脆弱な署名方式と鍵確立方式を2030年より後に非推奨、量子脆弱な方式全般を2035年より後に使用不可としています。最終版で変わる可能性があるため、最新の状況はNISTのページで確認してください。
参考資料
- 預金取扱金融機関の耐量子計算機暗号への対応に関する検討会 報告書(2024年11月26日) 外部サイトへ移動します(金融庁)
- 「預金取扱金融機関の耐量子計算機暗号への対応に関する検討会」報告書について 外部サイトへ移動します(金融庁)
- 新形態銀行との金融犯罪対策等に係る意見交換会 連絡事項(2025年6月6日開催) 外部サイトへ移動します(金融庁)
- 業界団体との意見交換会において金融庁が提起した主な論点(2025年2月26日 日本投資顧問業協会) 外部サイトへ移動します(金融庁)
- G7サイバー・エキスパート・グループによる「金融セクターにおける耐量子計算機暗号への移行に向けた協調的なロードマップの推進に関するステートメント」の公表について 外部サイトへ移動します(金融庁)
- G7 Cyber Expert Group Statement on Advancing a Coordinated Roadmap for the Transition to Post-Quantum Cryptography in the Financial Sector(原文、2026年1月) 外部サイトへ移動します(G7サイバー・エキスパート・グループ(米国財務省が掲載))
- 金融機関等コンピュータシステムの安全対策基準・解説書(第14版)【PDF版】 外部サイトへ移動します(公益財団法人金融情報システムセンター(FISC))
- 政府機関等における耐量子計算機暗号(PQC)への移行について(中間とりまとめ) 外部サイトへ移動します(内閣官房 政府機関等における耐量子計算機暗号(PQC)利用に関する関係府省庁連絡会議)
- 政府機関等における耐量子計算機暗号(PQC)利用に関する関係府省庁連絡会議 外部サイトへ移動します(内閣官房)
- NIST Releases First 3 Finalized Post-Quantum Encryption Standards 外部サイトへ移動します(National Institute of Standards and Technology (NIST))
- FIPS 203, Module-Lattice-Based Key-Encapsulation Mechanism Standard 外部サイトへ移動します(NIST Computer Security Resource Center (CSRC))
- NIST IR 8547 (Initial Public Draft), Transition to Post-Quantum Cryptography Standards 外部サイトへ移動します(NIST Computer Security Resource Center (CSRC))
- Post-Quantum Cryptography (project page) 外部サイトへ移動します(NIST Computer Security Resource Center (CSRC))
- NIST Selects HQC as Fifth Algorithm for Post-Quantum Encryption 外部サイトへ移動します(National Institute of Standards and Technology (NIST))
- Timelines for migration to post-quantum cryptography 外部サイトへ移動します(National Cyber Security Centre (NCSC), UK)
- Quantum-Readiness: Migration to Post-Quantum Cryptography 外部サイトへ移動します(CISA、NSA、NIST)
